卓球のプロ1号でやることは自分の人生の中で
非常に価値のあるものだと思ってた。
松下浩二の場合、まず所属チームとプロ契約し、卓球メーカーとスポンサー契約を結び、そこからの収入を得る。あとは試合の活躍に応じたボーナス、全日本などの大会で優勝したときの報奨金、国際大会(賞金大会)に出場して賞金を獲得する。これらがプロ選手としての主な収入となる。
− 最終的にプロになることを決意したきっかけは?
「卓球のプロ1号でやることは自分の人生の中で非常に価値のあるものだと思ってました。その時点で失敗するか、成功するかわからないけど、一番目にやれば名前を残せる。だけど、周りの人の8割は反対でした。
サラリーマンの人はほとんど反対するけど、自営業をやっている人は賛成してくれました。生き方の価値観が違うんですね。それに卓球をもっともっと発展させて、小さい子供たちに夢を与えたいし、同時に自分の年収も上げなければいけない。年収といってもそれほど高くなくて、スポンサー料をもらってもサラリーマンの2倍くらいで、これでやっていけるのかなと不安だったけど、なるべくポジティブに考えるようにしました」
− その意気込みとは裏腹に、93年の世界選手権の日本代表からもれた。
「留守番でした(笑)。出られないことで気持ちは複雑でしたけど、でも腹は立たなかった。自分の実力をはっきりとした形で認めさせないといけない。そのためには自分は一番になるしかない」
− そこから松下浩二の全日本狙い″が始まった。
「その年の全日本は一番しか狙っていなかったし、二番、三番は見てなかった。高島(規郎)さんと9月に会って、全日本までの3カ月間くらいものすごく協力してもらいました。技術や考え方を多く教わりました。それが一番大きかった。やはりメンタルが変わったし、勇気づけられました。カットマンは基本的には守りだけど、気持ちは攻めでいけとか、接戦の時にどうしたらいいかとか。やはり高島さんは全日本を3回も取っている人で、そこ(頂点)を見ている人だから。たどり着いた人しかわからない部分がありますからね」
そして臨んだ93年12月の全日本。順調に勝ち進み、準々決勝で伊藤誠(シチズン時計)と対戦。1対2とリードされた4ゲーム目、14−20とマッチポイントを取られながらも奇跡の大逆転劇を作り出した。
「14−20になつたときに負けたな″と一瞬思いました。ところが、ボールを拾いに行ったときになぜか周りの景色が見えた。そこで、いろんな人に協力してもらったから、勝つとか負けるとかじゃなくて最後まで一生懸命やらなくてはいけないなと思いました。自分一人で戦っているんじゃない。監督、コーチ、トレーナーもいるし、そのほかにも協力してくれた人がたくさんいるから、その人たちをがっかりさせてはいけないなと」
− 周りが見えたということは?
「開き直れたのかもしれません。神がかり的でした。プレー自体も凡プレーがなくて、
ベストプレーの連続でした。そのときまで神様という存在は信じるほうじやなかったけど、″神様はいるのかな″と思いました。
自分の力以外の何かがあるのかな、と。勝つためにはいろんな人の協力が必要で、その中で自分が努力しないといけないし、そういったことがないと奇跡的なことは起こらない。次の準決勝でも山本さん(シチズン時計)にゲームオールのジュースで先にマッチポイントを振られましたけど、妙に落ち着いてました」
−決勝の糀谷戦も競り合ったが最後に振り切り初優勝。それまでは勝負弱い面があると言われてきたのに、93年の全日本では勝負強さが目立った。
「もちろん、練習量は増えているから凡ミスは少なくなるけど、それだけじゃないような気がする。それまでは一人で、自分のわがままで卓球をやってきたのが、みんなに支えられて卓球をやっていると思ってからは、追い込まれても力が出せるようになった」
− プロは自分一人で戦うというイメージがあるけど。
「ぼくは最初、プロというのはすごく孤独で、自分の意見を貫かなければいけないと思っていたけど、以前よりも相手のことを考えられるようになったし、感謝の気持ちを持てるようになった。人間というのはちょっとしたきっかけで変われるものかもしれない。プロだからお金がほしいというのはあるけど、それだけを求めているわけではない。お金はあとからついてくるもの。あるのはプロとしての闘争本能とプライドだけです。試合中は勝つことしか考えてない。これ勝ったら200万円だ、300万円だというのは全然考えてない」
− 全日本で優勝した瞬間の気持ちは?
「長かったな″と感じました。全日本の一般に出てちょうど10年目だった。卓球やっててよかったし、ホッとしました。それに自分のことより、両親のことや支えてくれた周りの人が喜んでくれることがうれしかった。なんか不思議な気分でした」
劇的な全日本初優勝でプロ1年目を乗りきった松下だが、2年目の94年の全日本はベスト8に終わっている。「自分が気がついていない間に際を作ってしまったのかもしれない」と本人は反省する。
− プロ宣言してから全日本までの数カ月間と、翌年の全日本までの1年では精神状態が違っていたということ?
「新鮮じゃなかった。卓球に取り組む部分で甘い部分はあったと思いますよ。プロ宣言した2年目はがむしゃらなところが少なかったかもしれない。大きなものを1年目で得てしまったから、口では世界でがんばる″と言っていたかもしれないけど、努力の点で少し劣っていたのかもしれない」
− 全日本で負けたあとに、天津での95年世界選手権があった。
「せっかく世界選手権にもどってきたから何とかそこで自分をアピールしたかったし、日本のためにもがんばろうという気持ちになった。全日本のあとに腰を傷めて、1カ月くらい満足に練習できなかったけど、マイペースで調整させてもらったし、その間にワールドサーキットで当時の世界ランク1位のJ.セイブに勝ててすごく自信がつきました」
− 4年ぶりの世界選手権の実感は?
「あの大会には100%満足してます。世界と自分との開きは自分が思っていたよりはないと感じました。ぼくは日の丸をつけてやるのが好きだし、外人には負けたくないし、日本人として誇りを持ってますから、すごい充実してました」
− その年(95年)の全日本では完壁な優勝だった。
「あの時は、ああ自分は少し強くなったな″と思いました。1回目の時は周りのみんながいろいろやってくれて、そういう力で優勝できたけど、2回目の優勝の時には、それに加えて自分に力がついたんじゃないかなと自信が持てた。結果的には楽な展開で優勝できたけど。1試合1試合プレッシャーは大きかった」
− 力がついたというのは技術の部分、それともメンタル?
「メンタルの部分が大きいと思います。あまりくずれなくなった。前半で点が離れていても、そこから追いつくことができた」