それまでアマチュアの世界で甘えてやってた。
ところがスウェーデンの練習は衝撃的だった。
− 89年の世界選手権ドルトムント大会では、いいパフォーマンスができたね。
「あの時は前回よりもいい成績を残したいと思ったし、古くさい言い方だけど、日の丸をつけているんだから負けられないというプライドはあった。団体戦ではドイツから2点、ソ連から2点取れたし、劉南奎にも勝てた。自分の今までの中で5本指に入るような試合ができて、世界で自分はやっていけるという確認はできたし、自信もついた」
− その年の夏にスウェーデンの 『ファルケンベリ』 というクラブに行って1シーズンプレーしたけど、カットマンが外国でプレーすると慣れられて不利という声もあった。
「はっきり言って、自分が強くなるかどうかということがぼくにとってのテーマだから、慣れられても強ければ勝てると思っています。89年のスウェーデンは世界で優勝していたし、アペルグレン、リンド、ワルドナー、パーソンがみんなスウェーデンリーグでプレーしていたから、自分を伸ばすにはいいチャンス。今思うとそういった経験が本当に生きている。技術的なものも身につけたけど、技術を支えているのは人間としての自分自身だから、その自分を大きくする意味ではよかった。『人間力』がないと自分の技術も生かせない」
− スウェーデンではどの面で影響を受けたのだろう。
「それまでアマチュアの世界で甘えてやってました。ところがスウェーデンの練習は衝撃的でした。練習も一球一球集中力を高めて、厳しくて、質のいい練習をやっているし、練習中はみんな殺気だって、声もかけられないくらい。卓球において妥協しないし、体に悪いことは絶対にしないし、本当に卓球に賭けて生きている姿勢を見た。時間を使うのもうまい。バッと練習に来て、バッと集中して、バッと帰って、あとは自分の好きなことに時間を使うんですよ、彼らは。日本選手を見ているとすごく無駄なことをやっているように見える。何時から何時まで練習場にいなければいけない″というようにダラダラやっている。スウェーデン選手は24時間を本当に自分のために使っている」
− プロ宣言の布石としてこのスウェーデン行きは大きな一手になつたのかな?
「もちろんそうです。プロはいいなと思いました。時間を自分のために使うことができるし、好きなことをやって生きているのが何よりもいいなと。スウェーデンに行って自分の考えをある程度言えるようになったし、生き方で妥協をしなくなったように思います。日本に帰ってきてから自分はプロフェッショナルでやっていきたい、という気持ちを持ったんですけど、そういう土壌が日本にはないから、あまりに現実離れしていて、なりたいけどどうしよう、どうしよう″という感じ。自分の実績も全日本でベスト4くらいの力だったから、プロになってもこんなんでやっていけるのか……と」
− スウェーデンから帰ってきてから1年後くらいにバルセロナ五輪の国内予選があった。
「それが一つの節目と思ってました。もしオリンピックに出られるならプロとしてもやっていけるだろうな、と。自分はプロになりたいから、どうしてもその試合に勝たなければいけないという意気込みと自分の中でのプレッシャー……。その予選に向けてすごく努力したし、賭けてました。そこでダメならサラリーマンでいくしかない。あの国内予選で負けていたら、今卓球はやってないと思います。卓球も好きだけど、ダラダラ卓球をするのは好きじやないし、卓球に区切りをつけて仕事に行くのがいいだろうと思ってました。国内予選を通過した時点(91年冬)で『これでプロになろう』と決意しました」 92年夏のバルセロナ五輪に出場を果たすが、実際に松下浩二がプロ宣言するのは93年の春まで待たなくてはならない。
−なぜすぐにプロ宣言しなかったのだろう。
「協和発酵にはいろいろお世話になっていたから、オリンピックは協和発酵の名前で出たかった。それが終わってから会社とプロ契約の交渉をしました。そのときにはっきりとプロは無理と言われたので、93年1月に日産自動車に移籍しました。92年のオリンピックが終わってから93年にプロになるまでいろんなことがあって、すごくいい経験をしたし、自分でも苦しみました。会社の人にはそんなのはやめたほうがいいと言われたし、自分も協和発酵という会社は好きだった。だけど自分の夢をつかみたいという野望もあった」
− 移籍直前の全日本ではベスト16に終わった。
「自分がプロフェッショナルになるのが89年からの夢だったし、オリンピックが終わった時点でそれに近づいていたので、移籍直前の全日本でベスト16で終わっても気にならなかった。日産に入ってから日本卓球協会にレジスタードプロを申請して、認められたのが4月で、それからスポンサー(タマス)と正式に契約しました」