| 松下浩二 スペシャルインタビュー (2004.6.22 青山京寿々にて) | ||||||||||||||||||||||||||
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| オリンピック開幕まで1ヶ月と迫ってきました。今アテネで、この原稿を書いていますが、工事の進行具合はバッチリです、とご報告するのは大変難しく・・・後は、ゼウスの神、守護神アテナに頼るしかありません。 日本にとっては、人見絹枝さんの女性初出場から(アムステルダム)初めて、女性の参加者が男子を上回ることになる記念すべき「女性の五輪」になりそうです。しかし、男子にもいるんですね、いぶし銀のような選手が。 卓球の松下浩二選手、付き合いはもう彼が大学生の時からですから、私が40を過ぎてるはずです。今回、オリンピック4大会連続出場の快挙を果たしました。同じ卓球には愛ちゃんがいます、女性も華やかです。でも、私は、松下選手のような鉄人アスリートに惹かれます。今回、第二回目となるマスジマスタジアムの完全オリジナル、「スペシャルインタビュー」には、男性陣のシンボルとしての松下選手にゲストとして出演願いました。実現にあたって、ご本人、ミキハウス、チームマツシタ関係者、みなさんのご協力に、心から感謝します。 大変興味深い話ばかりですが、そういえば卓球には未来がない、早く辞めます、初めて取材した大学生の頃、言っていたはずなんですが、一体どうして4回の五輪に出るようなことに・・・。 増島みどり
−T− 夢の入り口 「BMWに乗って大きな家に住みたい」 ―きょうは本当に楽しみにしていました。どうも有難うございます。松下選手に初めて会ったのは、私がまだ日刊スポーツにいた頃、確か学生選手権で優勝をした時だったと記憶してます。「卓球でやっていくつもりは全然ないんで・・・」と言われたよね。で、アテネ五輪4大会連続出場って、どういうこと? 松下 ―私が40ン歳になるわけですよ。あのときのことは忘れませんよ、優勝して「食えないから早く辞めます」って、変な選手ですからね。 松下 そう、卓球では食えないから社会に出て、社長になってやるって、それだけ思っていた。何でもいいから社長、会社に入ったらそこで一番になっていい生活をしたいなあ、と漠然と考えてましたね。 ―今思えば、五輪4大会連続出場よりも社長になる方が楽だったかもしれませんけれどね。卓球に将来がないということは、プロがなかったという話ですね。 松下 はい、当時の実業団のトップ選手はもちろん実力はあったんですよ、世界的にも。でもこういう質素な生活してるんだ、世界チャンピオンになっても質素なんだ、と思って。問題は、全然、夢がないなあと。そこで俺はこういうふうにはなりなくないなあと思ったんですよ。もちろん、卓球は好きなんですけど。でも好きだからこそ、そこで苦しい思いをして、その結果としていい生活がしたい。まあ家がそんなに裕福じゃなかったから、まそれなりにいい生活したい、だから早く辞めたほうが身のためかなあと考えてたんです。 松下 職業になってしまいましたね。きっかけは、スウェーデンに行った89年。当時、スウェーデンが中国を下して世界一になったので、「なんであんな人口が少ない国なのに」って、800万人くらいでしょう。興味本位でしたね、プロってなんだろうなって。プロと言われても具体像が浮かばないですから。まあとりあえず見に行こう、やりに行こうと。大学4年生のときですね。 ―見に行こう、やりに行こうから? 松下 それで完全にはまっちゃいましたよね。好きな卓球を職業にして一生懸命やっていく、いい成績を上げれば、いい車にも乗れるし大きな家にも住めるし、すごくいいなあって、憧れちゃったんです。 ―おかしいじゃない。夢はないから早く辞めるって言っていたのに。 松下 でも、スウェーデンにはプロの形があったんです。すごくいいなあって思った。僕と同じクラブに、88年のオリンピックファイナルで、リンドっていう選手がいたんですね。乗っている車はBMW、オープンカーで、家も大きくて、うわー凄くいいなあって。僕よりも、4つくらい上で、食べていきようによっては、卓球で食べていけないことはないんじゃないかなって思わせてくれた。僕と同じクラブでやっていたカールソンっていう、その当時はすごく弱かったんですけど、その選手もやっぱりリンドに憧れて「俺もこうなりたい」って目標を持ったそうです。当時、彼は自転車で練習に来てましたが、練習を一生懸命やる選手で、99年の世界選手権ダブルスで優勝を果たした。 ―でBMW? 松下 BMWですね。 ―(笑)なるほどわかりやすい。 松下 卓球王国っていう専門誌の編集長をやっておられる今野昇さんっていう方がいるんですけど、僕、高校から上京してきましたでしょ?お金がなかったんですが、事務所に呼んでごはん食べさせてくれたり、アルバイトもさせてくれて、僕の兄貴分みたいな方なんです。その方が、このままじゃ日本はどんどん弱くなる。だから外国へ行って見たほうがいいよって、言っていましたね。それがきっかけです。 ―旅費は? 松下 旅費、滞在費、食費などは全部クラブ側が出してくれて。負担のないように。質素でしたからね。 ―BMWや大きな家、サクセスストーリーを実際に見たことは大きいですが、一方であらゆるコストに対して自分が責任を負うことであるとかこちらも見たわけですね。 松下 はい。そうですね。でもそういう点が良かったですね、惹かれました。自分のやったことに対して責任を取るというのが。そういうことを学んできたので、僕は、何でも理由は付けないんです、環境のせいとか、仕組みであるとか。すべては自分で受け止める。最初に就職した協和発酵で話したんですね、プロという形態はどうだろ、と。そうしたら、まあ当然ですが、そんなのは無理だよ、プロになってどうするの?今でも好きなことをやって給料をもらえるじゃないかって。やっぱり誰でも言いますよね、誰もやってないし、前例もない、食べていける道筋がないんで、そんな無謀なことしてどうするの?両親にも言われました。それで、モヤモヤした気持ちで、91年、世界選手権があった年ですけれど、全然勝てなくて。やっぱりこのままじゃだめだなって思ったんですよ。その頃になれば、会社の中の厳しさっていうものも分かってくるんですよ。 ― 一般入社の・・・ 松下 はい。違いですね、卓球では勝負できるかもしれないですけど。 ―社内卓球ならね。 松下 はい、でも会社の中で、となると早稲田とか東大とか、横にいる人たちとの能力の差はあるんですよ、彼らは勉強ばかりしてきたから、いろいろな引き出しがたくさんある。体力勝負じゃ負けなくても、それだけで会社はやっていけない。僕がいなくても、この会社潰れないと。そこで、僕は、僕にしかできないことがあるんじゃないかなって考え始めたわけです。そこにこだわるべきじゃないか、と。それがプロフェッショナルになることでした。このままじゃあ、小さい頃の夢、例えば世界選手権でチャンピオンになるとかそういった夢には全然届かないなあって。卓球でここまで来たんだし、やっぱり悔いのないように卓球で頑張るべきじゃないかなと。 ―91年に、しっかり方向が固まったとして、システムがないでしょう? 松下 ないですね、でもどっかで決断しないといけない。バルセロナの年(92年)の1月にアジア予選があって、それに勝てたら、協和発酵に考えをもう一度話して、それでダメだったら他いこう、と。そして、他でダメなら計画通り卓球を辞めないと、社内で追いつけないと思ったんです。予選にかけてたんですよ。そして1月に通ってすぐ会社に「僕はプロフェッショナルとしてやっていきたいので契約社員として雇ってもらえませんか」と、話し合ってくれましたがダメでした。では、違うところを探すかもしれませんので了解してくれますか?と。 |
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