| 2002年 全日本選手権を終えて 松下浩二 2002.12.27 | |
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今、自分はサンフランシスコの空港にいる。28日からシカゴで行われる「キラースピン・カップ」に出場をするためだ。アメリカ国内はテロを警戒して、飛行機に乗るまでに入念なチェックを受けなければいけない。コンピューターは開けられて電源を入れられ、体はもちろんのこと靴の中まで調べられる。
全日本選手権が終わって3日が経った。ここで、全日本選手権のことを少し振り返って見たい。 結果は2連覇を飾ることができたが、2連覇をするためにはいろいろなプロセスがあった。11月上旬に行われた世界選手権の選考会、そして11月下旬 の全日本社会人を足首の故障のために棄権をしなければいけなかった。無理をすれば、両方の大会とも出場をできたかもしれない。しかし、自分は全日本選手権に懸けるために両方の試合とも我慢をして出場を断念した。 足の調子が良くなったのは12月上旬だったが、再度故障をすることを恐れて、ハードなトレーニングはすることを控えていた。だから技術的な部分よりも、体力的に全日本の最終試合までもつかどうかが不安だった。 今大会は、対戦相手を想定してビデオを見た。今までの全日本は「どんな相手が来ても全力で頑張るだけ」という考えでビデオは全く見なかった。特に準々決勝、準決勝で対戦が予想されていた三田村(青森大学)、遊澤(東京アート)のビデオは最終日前にしっかりと見て研究をした。その甲斐があって、自分が思った通りの試合展開で勝つことができた。 準々決勝の三田村戦を終えて、他のブロックでは木方(協和発酵)が偉関さん(健勝苑)に勝ち、倉嶋(協和発酵)が全日本社会人で優勝をしている新井(グランプリ)に勝った。はっきり言って、木方が1月にアキレス腱を切って6月に復帰をした偉関さんに勝つことは不思議ではなかったが、倉嶋が11月から絶好調の新井に勝つのは予想外であった。 これで、決勝戦は木方、倉嶋のどちらが上がって来ても苦しい試合になると思った。新井が決勝に来ることが、自分に取って一番対戦しやすい相手だったが、結局一番苦手な木方が決勝に上がってきた。 決勝前は、木方に対してはこの1年勝ったことがなかったので、自信はなかった。 「今年は2位で終わりかな?」とさえ思った。しかし、決勝戦の前の自分はとてもリラックスしていて、プレッシャーは全くなかった。ここ1年勝ったことのない木方に「向かって行く」だけという気持ちだけだった。 入場行進をして、選手紹介があり、トレーニングウェアーを脱いで卓球台に向かうとなんとも言えない心地よい感じがした。それは、大勢の観客やNHKの生中継のテレビの前で決勝戦が出来るという喜びから来たのかもしれない。「思い切ってやろう!」と言う気持ちで、ボールに向かった。 試合が始まると木方が緊張をしていることが、すぐに分かった。だから自分は、「相手は無理をしてこないので、こちらから攻撃をするチャンスがある」と思った。 実際に、木方は3球目から5球目は積極的に攻めてこなかったので、こちらから攻撃をすることができた。1、2セット目をうまく取り、これで五分五分だと思った。 3セット目を10−12で落として、続く4セット目6−9から4本連取をして、このセットを12−10で逆転で取ることができた。このセットを取ったことが大きかった。5セット目は一方的に攻められて、6セット目に入った。6セット目は出足から1セット目と同様に攻めて行き、4−1、6−4でリード。6−7と一旦は逆転をされたが、再び10−7といよいよマッチポイントを握った。この時に初めて緊張をした。案の定10−9と追い上げられて、ここでタイムアウトを取った。 自分のやるべきことを整理したかったからだ。とにかく「集中をしよう」と心掛けた。木方が自分のバック前に出したサーブが少し高く、変化のないサーブだったので、思わずツブ高でバックに軽くフリック(払い)をしてしまった。これを予測していなかった木方は、うまく回り込むことができずにミスをした。これで、自分の2連覇が達成された。 今思うとよく最後にツブ高でフリックをしたと思う。自分の集中力が極限にまで達していたからできた技だと思った。 今回の全日本選手権も苦しい戦いだったが、勝因は一本足りとも気を抜かなかったからだと思う。そして、自分をサポートしてくれたコーチの高島さん、ドクターの東先生、練習パートナーの平(健勝苑)、アスレチックトレーナーの永井さんの協力なくして優勝は語れない。本当に感謝の気持ちで一杯である。 |
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